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終身雇用が瓦解して [その他]

いま、アメリカのホワイトカラーが話題にする
事といえば、株価の動向がすべてといっても
いいくらいだ。

大企業のCEOにしても、自社の株価が下落
したら、すぐに首を挿げ替えられる。

株主に利益をもたらすことが企業の最優先
事項になって久しいアメリカ社会では、年俸
500万ドル以上のCEOは当たり前だが、
彼らの使命は会社の株価を上げ続けること
にあり、それが彼らの"価値" になる。

結果として、CEO在任中の数年間はリスク
を取りたくないわけで、技術開発に資金を
注入することにも躊躇するようになる。

だから、全体としてみれば、アメリカの技術力
はスカスカな状態だ。

すでに完成した技術や、見込のある技術を
外部から買い入れて使えば、投資額も少なく
て済むと考えるようになってくる。


日本も、会社の在り方がアメリカナイズされて
来ているが、とくに今世紀に入ってから、企業
は、〇〇ファンドの前後に株主優先の方向に
舵を切ったように思える。

明治維新から、和洋折衷で今日まで発展して
来たにせよ、日本の風土、日本人の気質に
合ったやり方は残した方がいいと思う。

終身雇用、年功序列、護送船団方式、それに
メインバンクという考え方は、少なくとも、日本人
の気質にはとてもフィットしたカタチだったろう。

それを、西洋人がそっくりまねしたとしても、
気質の違いから、早晩、会社は回らなくなる
だろうと思う。

"昔はよかった" などとは思っていないけど、少なくとも
社会に厚みというか、"のりしろ" があった。

このまま行くと、「技術ない国日本」になってしまわない
かなあ。

ペーター・ドルッカーさんも云っていたけど、企業の
存在理由は社会貢献と、社員とその家族に幸福を
もたらすことであり、結果として、利益は自ずと後から
ついてくるのだと。




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火星接近と皆既月食 [その他]

4/10 の19時過ぎ、仰ぎ見た空には10番目の月が
あり、その少し離れた左隣に明るいオレンジ色の
星を観た。

26ヶ月ぶりに、火星が接近しているのだ。

地球は約365日で太陽の周りを公転しているが、
外惑星である火星は、おおよそ687日で公転して
いる。 火星の一年は687日ということだ。

地球の場合は、ほぼ円軌道で公転しているが、
火星は楕円軌道で太陽を周っている。

したがって、26ヶ月ごとの最接近といっても、
火星の楕円軌道上の、どの位置で地球の軌道が
平行するかによって、3.500万km近い差が生じる。

今回の接近は、約9.200万kmの彼方、26ヶ月後の
2016.5.31 は、約7.500万kmまで接近。
52ヶ月後の2018.7.31は、約5.800万kmの大接近
になる。

4月14日の夜、晴れているなら14番目の月の左上に
寄り添って、オレンジ色の火星が光っているという、
めずらしい光景を観ることができる。

そして、翌15日は満月で皆既月食があるのだが、
残念ながら日本だと、中部から東の地域なら、月が
昇って来た時点で、少し欠けた月が観測できる位。


14日の夜、空を仰いで目に映る月は、1.3秒前のもの
そして火星は5分前の光を目にしていることになる。

銀河の辺縁に位置する太陽系で、4番目と5番目の
惑星が接近するというだけのささやかな天体ショーだが、
宇宙はとてつもなく広い。



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shall we ジャスティス? [その他]

「Shall we ダンス?」の周防正行監督が
いま取り組んでいる仕事は・・・


法務省の『新時代の刑事司法制度特別委員会』
の委員。

役割は、刑事訴訟法の改正に関すること。
重要項目は、"取り調べ手続きの可視化"

暗箱状態での取り調べでは公正な記録が
残らないので、一部始終をビデオに撮るべき
という意見がある。

周防監督は、それを審議するための委員会に
入っている。

痴漢による冤罪と、そのリアルな結末を描いた
「それでもボクはやってない」を撮った監督だけに
その委員会に招聘されたのだろうか。

もっとも、委員会は法律家を中心に構成されて
いるので、監督は孤軍奮闘しているらしい。

たとえば、ある事件が発生する→「被告」がいる。
裁判が開廷する。

このとき、「証拠」を握っているのは検察側だけで、
弁護側には一切の証拠が知らされない。

その事件に関して、被告に有利なもの、不利なもの、
公正な証拠があったとして、検察官が有罪にしたい
ために不利な証拠のみを提出したとする。

弁護側が、「その証拠は疑わしいのではないか、
という事を示すような証拠」を、検察側に開示請求
することはできる。

しかし、たとえ有利な証拠があったとしても、検察官が
「知らない」と云えば、それ以上追及はできない。

それが冤罪の温床になっているという。

その委員会には、この制度を作った刑事訴訟法の
権威も入っているらしい。

周防監督は、その権威に現行法の不公正な点を質した。

すると権威は、「我々は性悪説に立っている。すべての
証拠を出してしまえば、被告は有利な証拠を組み合わせ
証言を捏造する恐れがある。従って、すべての証拠は
開示しないのだ」と、宣ったそうだ。

そこで監督は、「検察官の性悪説はないのか?」と質した。

権威は沈黙したそうだ。

推定有罪。検察官に関しては性善説、被告・弁護人に
関しては性悪説。それが制度設計らしい。

監督の質問に、権威はだんだんキレてきて「おまえらに
わかることじゃないから専門家にまかせろ!」だって・・

さて、制度改革には司法に関わる者の質の劣化を考慮
せねばならないのか。
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「森田一義アワー」もお終いだって [その他]

「笑っていいとも」のスタートは、私が所謂、社会人として
スタートした年と重なっている。

「いいとも」が始まって2年が過ぎたころには、タモさんは
すっかり「昼の顔」に馴染んでいた。

1984年の初夏、バイク仲間3人で金沢方面へツーリング
に出かけた。 
  
仲間の1人が、金沢の大学を出ており、金沢の仲間や
世話になった先輩を訪ねる旅だった。

その彼が、当時いちばん世話になったというNさん邸に
泊めていただき、豪勢な夕食をご馳走になり、それまで
飲んだこともないコニャックの栓を開けてくださった。

そのNさん、早稲田のジャズ研でタモさんといっしょだった
そうだ。

「トランペットは泣いていなきゃいかんのに、お前のペット
は笑っているんだよ!と、先輩から指摘されて、森田は
定期演奏会の司会役に専念するようになった。」 とNさん
から聞かされた。

それはタモさん自らも語っており、今では知られた話だ。

まだ売れる前に、Nさん宅へ、タモさんはよく遊びに行って
いた様だ。

「あいつも名が売れたよなあ・・」と、感慨深げにつぶやく
Nさんだった。

仕事の都合で、ふたりは2泊3日の金沢を後にした。
時間に余裕があった私だけ、糸魚川から白馬に寄り、
2泊してから帰ることにした。

初めてタモリという人をテレビに見たときは、何やら、それ
までにみたことのない異質な雰囲気を醸し出していた。

ペッタリとグリースで髪を後ろに梳かしつけ、右目には
アイパッチという風体で、何かのコマーシャルに出ていた。

最初にタモリを"発掘"したのは、ジャズピアニストの
山下洋輔だと、山下本人が著書に書いている。

九州の演奏旅行で馴染みのスナックに入ったら、面白い
奴がいて、これは東京へ連れて行き、遊び仲間にその
面白さを教えねばならぬと山下洋輔は決断した。

東京に連れられて来たタモリは、赤塚不二夫や筒井康隆
の前で"密室芸"を披露した。

それには、高度な笑いの達人たちも唸った。

これは帰してはいけないと思った赤塚不二夫は、タモリの
身元引受人になり、自由に彼を遊ばせた。

不二夫氏の葬儀告別式に於いて、「私も赤塚先生の作品
のひとつです」と、弔辞を締め括ったタモさんの其の言葉
には、万感の思いが籠っていたのだろう。

今夜は最後の「笑っていいとも」だけど、「今夜は最高」が、
なんといっても一番面白くて好きでした。


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原子心母 [その他]

1970年、ピンクフロイド5枚目のアルバム。

ピンクフロイドを初めて聴いたのは74年だった。
高校で同じクラスになった音楽マニアの影響。

それまで、クラシックやジャズ風の音楽ばかり
聴いていたので、遅ればせながらロックの面白さ
に目覚めた。

この、原子心母(Atom heart mother)が初めての
ピンクフロイド経験。





ピンクフロイドの実質的なデビューは、1967年だった。

因みに、バンド名はシド・バレットが敬愛する2人の
ブルースマン、ピンク・アンダーソンとフロイド・カウンシル
から拝借したもの。

ロジャー・ウォーターズ (ベース)
ニック・メイスン (ドラムス)
リチャード・ライト (キーボード) 
シド・バレット (ギター、ボーカル)

ファーストアルバム「夜明けの口笛吹き」The piper at the gates of down
までは、シド・バレットがバンドの中心になっていたが、
薬物乱用で次第に音楽活動にも支障を来すようになる。

途中でシドの代わりにデイヴィッド・ギルモアがバンドに
加わった。 その後、

73年の「狂気」 The dark side of the moon
75年の「炎」 Wish you were here
79年の「ザ・ウォール」 The wall

はメガヒットになった。

「炎」に収録されている「狂ったダイアモンド」は、
精神が"あちら側"の世界に行ってしまったシド・バレット
に捧げた曲だろう。

シドは、2006.7.7に、ほんとに逝ってしまった。

ピンクフロイドは、他の、所謂プログレッシブ・ロック
バンドの様に、技巧に走ることなく、しかし、ブルージー
で奥行きのあるサウンドを追及していた様に思う。

先ほど、久々に「原子心母」と「炎」を聴いてみたが、
やはり良い。

音楽と云わず、何でもいちばん熱中していた時代の
ものが、いつまでも一番なのだろう。

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NHKにも生き残ったサムライがいる [その他]

政府の宣伝機関としての色合いがますます
濃厚になってきた日本放送協会。

この数年、不都合な特集番組を制作した
プロデューサーが左遷されている。


http://www.at-douga.com/?p11051


それでも、気骨のある職員は現場に生き残っている。
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『フクシマの嘘 其の参』 [その他]

高3の文化祭で、友人がクラスの片隅にスペースを
確保して、リポートを発表するので手伝えという。

テーマは、「我が国に於ける原発の危険性」だったと
記憶する。

日本で年間に記録される地震の数、震度、今後予想
される巨大地震、アメリカ由来の原子炉の耐用震度が
日本で過去に発生した地震の最大震度に対応していない、
そして、基本設計は淡水冷却用なのだが、沿岸部に建設
される日本では海水を冷却水に使うなど、高校生の
リポートとしては、かなり掘り下げた内容だったと思う。

二年後、「チャイナ・シンドローム」という原発事故をテーマ
にしたハリウッド映画がヒット。

その数か月後に、スリーマイル・アイランドでメルトダウン
に至る事故発生。

翌年、「原発ジプシー」というタイトルの本を、ルポライター
(名前を失念)が上梓した。

彼が原発労働者として現場に潜り込み、実際に見聞きした
ことが書かれている。一読したら、脱力した。

さらに六年が経ち、チェルノブイリでの事故だ。

そして福島・・・





「シビア・アクシデント」の定義は、「10万年に一度の確率で
発生する」のではなかったか。

少なくとも、三十数年のうちに3回の「シビア・アクシデント」
が発生している。


"物理学者のフェルミが唱えた学説に「フェルミのパラドックス」
がある。

その中の一つには、「言語を持つと滅びる」という解がある。

言語を獲得した生物は、何れ核を操るようになり、それを
制御できなくなった時点でThe end という事だ。"

と、「渚にて」でも書いたのだが、制御できない技術は、
経済最優先の構造の中では、最も危ういパンドラの箱
なのだと思う。


タグ:ドイツZDF
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三年目の3月11日 [その他]

あの日、関東平野が終わるところに位置する
拙宅周辺でも、だれも経験したことがないほど
の大きな揺れに見舞われていた。

街灯も信号も点かない暗闇の街は初めての
体験だった。

家に帰りつき、キャンプ用のコンロで調理して
ランタンを灯しての夕餉に、子どもたちは
その非日常なできごとを楽しむ余裕が持てた
ようだった。

拙宅周辺は、震度5強だったという。

ハッチにはすべてロックが掛り、二階の本棚
からは、殆どの書籍が滑り落ちて山になって
いた。

阪神淡路大震災のときは、関東に揺れはなく
夕刻の映像で視る惨状が、俄かには信じられ
なかった。

3.11のときは京都に住んでいる友人が云って
いたが、やはり、リアリティがなく、震災の映像
で埋めつくされた報道によって、現実に東北で
巨大地震が起きたのだということを認識するに
至ったそうだ。

日本列島を人体に例えるなら、左手を失った様
なものかも知れない。

しかし、笙の澄んだ音色が、天光を和音で表現
しているように、明るい日差しに身体を向けて
いましょう。



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肥後守 [その他]

鉛筆削り、竹とんぼ、ゴム鉄砲、パチンコ、etc
昭和一桁の少年たちは、ポケットの「肥後守」を
取り出しては、それらを細工していたらしい。

小一になったとき、父から「肥後守」を譲り受け、
ロック機構を持たない簡便な作りのポケットナイフ
の扱い方から研ぎ方まで、一通りを教わった。

002.JPG

その当時、子どもにナイフを持たせない運動があった
様に記憶している。

級友たちが、よく使っていたのは、剃刀の刃に似た
長方形の薄い刃をプラスチックのハンドルに納めた
折り畳み式のカッターナイフだった。

肥後守を使っていたのは私だけだったと思う。

「肥後守」という名は、永尾駒製作所の登録商標
なのだが、このU字にプレスしたハンドルに、座金で
ブレードを留めたフォールディング・ナイフは、明治の
中頃から、数多の鍛冶屋で制作される様になっていった。

各製作所によって名称は色々あるようだが、このスタイル
のポケットナイフを総称して、「肥後守」と呼ばれている。

画像下の「肥後守」のハンドルには、「肥後浮丸特級」と
刻印されている。

これは確か、中学生になったときに自分で買ったものだ。
後年、調べてみたら、東京の文具メーカーが藤原刃物
製作所に、肥後宗近のOEMとして発注したものらしい。

この肥後守も使い込んで何度も研いだので、刃が1mm
ほど磨滅している。

上のステンレス製は、SAKAIが現代風に「肥後守」を解釈
したら、というコンセプトで作ったもので、ロック機構を設け
ブレードは片刃、右きき様と左きき様がある。

父から、ナイフの"正しい使い方" を伝授されたのは幸運
だったと思う。

家人の各種包丁を研ぐことが容易にできるのも、肥後守
があったからだろう。
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蒸気機関車C58復活 [その他]

今朝の情報番組によると、客車に"銀河鉄道の夜"を
モチーフとして美しい青色にペイントした車輛を連結
したC58が、釜石から上野に向けて出発するという。

十時頃に発車しているはずだが、いま、どの辺りを
走っているのだろう。

【岩手岩介さんのリポートより】


このC58は、岩手の運動公園に展示されていたものを
さいたま市のドックで全てのパーツに分解して、フル・
レストアを受けたという。

私が幼児だったころには、SLはまだ現役で働いていた。

中央本線の松本駅に近い、どこかの鉄橋を渡るD51型
蒸気機関車を、散歩の途中でよく見かけた。

動輪が四輪だったことを覚えているので、D51に間違い
はないと思う。

その鉄橋を渡る機関車を土手から眺めていて、窓から
前方の様子を確認しているのであろう機関手の顔が
見えると手を振ってみた。

すると、機関手はニッコリと手を振り返してくれた。
同じ時間に、そこで機関車が通るのを待っていると、
私の姿を認めた機関手は、かならず手を振ってくれる
様になった。

おそらく、時速50~60kmのスピードだったのだろう。
走る機関車の窓から、機関手の顔がよく確認できた。
ときには違う人が運転していても、土手から手を振る
幼児の話を聞かされていたのか、やはり挨拶を返して
くれるのだった。

長閑な時代だったのだろう。

調べてみたら、このD51型機関車は1935~1950年まで、
総数1115台が生産された。

その数は、現代の電気機関車輛を含めても、最大の生産数
だという。

今も特別運行として、蒸気機関車がプラットフォームに入って
くるところに遭遇することがある。

あの音を聴くと、半世紀まえの記憶が鮮明に甦る。


タグ:C58-239復活
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